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みやまえ人Story vol.6 尾池久男さん・きみ恵さんご夫妻

尾池 久男さん 

尾池 きみ恵さん VOL.6

宮前区宮崎在住・在勤(群馬県出身/川崎市中原区出身)

1949年8月16日生まれ / 1949年8月19日生まれ

坦坦麺餃子工房 北京 経営


宮前まち倶楽部コネクション:『みんなのツリー2nd Season 2015』(もみの木の設置&管理。『みんなのツリー3rd Season 2016』(窓を拝借してツリー設置&管理。ありがとうございます♪)


「シャキシャキ、シャキシャキ…」、キャベツを刻む、小気味よい音が心地よいリズムとともに、調理場に響き渡る。毎朝、2~3箱分(1箱6〜8個入)ものキャベツが刻まれる。『坦坦麺餃子工房 北京』の朝は毎日、餃子の仕込みから始まる。


社長である久男さん自ら、毎朝、キャベツをザクザクと包丁で刻んでいく。そして、その後、機械にかけて、さらに細かくみじん切りにしていく。みじん切りにされたキャベツは、専用の袋に入れられ、重しをかけ、特注の機械によって、水気をしっかりと絞られていく。この作業が3回に渡って繰り返される。ただひたすらに、黙々と、キャベツを刻み、餃子の主役であるキャベツが仕込まれていく。


その横では、餃子のあんのベースとなるものが作られる。豚ひき肉、ニンニク、しょうが、ニラ、ごま油、醤油などなど、その日のキャベツの割合に応じて作られる。そして、その傍らでは、餃子の皮の仕込み。小麦粉(強力粉)を練って、寝かせ、皮が作られていく。


それぞれ手のかかる仕込み作業が終わって、やっと、餃子作りに取りかかる。餃子の皮を伸ばして、1個1個丁寧にあんを包んで、端正な姿の餃子が出来上がっていく。この工程すべてを、開店前までに終わらせなければならない。


決して手を抜かない。手間暇を惜しみなくかけて、愛情たっぷりに作られる、北京の秘蔵っ子ともいえる餃子。何でも効率化を求める時代に逆走するように、これらの一連の流れで、北京一番人気の餃子は、毎日、手作りされている。冷凍などの作り置きは、一切していない。北京の朝は、まさに餃子作りの下準備にほぼほぼ費やされていると言っても過言でない。こうして創業以来の評判の味が守られている。これこそ北京の餃子のおいしさの秘密なのである。


北京が今日、ここまで至るまでには、数々の歴史があった。苦労があった。今は亡き父、榮一さんは戦時中は中国・満州へと戦争に赴き、終戦後、帰国。親戚に紹介されて、川崎市中原区新丸子で八百屋を営むこととなった。それが、久男さんがまだ幼稚園に上がる前、2,3歳の頃だったという。夫婦2人で経営していた八百屋は、朝早くから夜遅くまで、忙しかった。だから、小学校に上がった頃から、自転車に八百屋の荷物を一杯に積んで、配達などの手伝いをすることもしょっちゅうだった。弟2人と妹も手伝っていた。朝起きて、学校へ行って、忙しい時には八百屋の手伝いをするのが、この頃からの日課になっていた。


それが、久男さんが小学校6年か、中学校1年に上がった頃のこと。一晩明けたら、経営していたのが八百屋からラーメン屋に変わっていた。実は、八百屋の隣がラーメン屋だった。どこでどういう話があったのか。ご両親も亡くなり、今となってはよくわからない話になってしまったが、昨日まで経営していた八百屋は親戚が引き継ぐこととなり、この日を境に、隣のラーメン屋を経営することになったという話。寝耳に水とは、まさにこのこと。その時の、隣のラーメン屋の屋号が「北京」だった。現在の北京は、この当時からの屋号をそのままに、『担坦麺餃子工房 北京』と引き継がれていくこととなった。


父は、独身の頃は、洋服の仕立てなどをしていたという。東海林太郎の服を仕立てたというエピソードもあったほどの腕を持っていたらしい。それが、戦争に駆り出され、戦争から引き揚げてきて、さてこれからどうしようかといった頃、親戚の紹介で八百屋の経営→ラーメン屋の経営と、時代のせいがあってか、なくてもなのか、状況は次々に変わっていった。


八百屋も大変だったけど、ラーメン屋は、もっともっと大変だった。「父は調理など何も出来なかったし、ましてやラーメン屋の経営なんて、まったくの素人だった。何も出来なかった。ただ、元のラーメン屋の経営者が、ラーメン屋の職人を置いていってくれたので、何とか見よう見まねで、引き継ぐことになった。朝早くから仕事に出て、夜中の12時まで営業していたから、それはもう、大変だった。オレも、出前に行ったり、食器を下げにいったり。お袋も忙しかったから、中学校の時から弁当はいつも、自分で作っていた。弁当の中味はいつも同じ、さつま揚げと目玉焼き。毎日同じものを作って、中学校に持って行っていた。」と、当時のことを久男さんは語る。


「ラーメン屋が遅くまで営業していたから、子どもの頃、毎日、夜寝るのも遅かった。だから、夏休みなど、休みの時はよかったけれど、今でもよく覚えているのが夏休みが明けての始業式の朝。前の晩も夜遅かったせいもあって、家族みんなで寝坊した。弟や妹は、家のすぐ裏に小学校があったから、なんとか駆けつけて間に合ったようだったが、オレなんか、片道30分もかかる中学校には到底、間に合わなかった。だから、新学期早々、休むことになった。そうしたら、有無をいわさず、早速仕事の手伝いをすることになった。始業式だから、みんなお昼頃には家に帰ってくるじゃない。そんな時、オレは出前に行かされたり、下げものをすることになって、その途中で帰宅途中の友だちと会ったりして、本当に恥ずかしかった。このことは、今でも鮮明に思い出せるほど、記憶に強烈に残っている。」


新丸子の「北京」を経営するようになって半年後、荏原中延に2号店を構えることになった。その後新丸子のお店を閉めて、元住吉へと引っ越した。それとはまた別に、千葉習志野の自衛隊の駐屯地内に、横須賀衣笠に、宮前区宮崎など、次々に店を構えることとなった。久男さんは高校を卒業してすぐ、父に衣笠のお店をちょっと手伝ってきてくれと、飛ばされていった。電車に乗って、衣笠に行った。それまで衣笠なんてどこにあるのかも知らなかった。行けども行けども、衣笠に着かない。衣笠は遠かった。ちょっと仕事を手伝うはずが、衣笠のお店で仕事をすることになり、あっという間に12、3年が経っていた。毎日毎日、仕事仕事の毎日だった。


ここ、宮前区宮崎に北京が開店したのは、今から43年前のこと。このマンションが出来た当時のことだった。当初は、弟夫妻が経営していた。ここを探してきたのも、父だった。知り合いに紹介され、すぐに決めた。今思えば、先見の明のある人だった。そんな父は毎日、あちこちの店に出向いていた。そして今から39年前の5月のことだった。毎日毎日、「疲れた」と言って帰ってくる父だったが、その日も疲れたと言って、帰ってくるなり倒れ込んだ。すぐさま病院に担ぎ込まれて即入院、約1週間で、あっという間に息を引き取った。59歳、久男さん28歳の時のこと。白血病だった。その後、いろいろと状況が変わり、久男さん32歳の時に、宮崎台店を引き継ぐこととなった。



久男さんときみ恵さんは、小学校・中学校時代の9年間、途中、クラスも一緒になることもあった同級生だった。それから24年後のこと、同級生が主催した小学校の同窓会で再会したのがご縁となって、結婚、そして現在に至ることとなった。


「結婚前までは、店のことは何もしなくていい。」と言われていたというきみ恵さんだったが、結婚してすぐに、プライベートでは奥様として、そしてお店の切り盛り全般についてサポートすることとなった。お店では洗い物から調理補助、餃子作り、人手がない時には鍋を振ることもしばしばあった。そして家に帰ってからも、従業員の前掛けなどの洗い物から、店で使うふきんなどの縫い物など、何から何まできめ細かに、久男さんを蔭から支えている。どんな用事よりも最優先で、店の仕事を引き受ける、仕事が間に合わない時には餃子作りに駆けつける、本当に人がいない時は鍋を振って調理もこなすなど、久男さん=北京の絶対的なパートナーとして全面的にサポートしている。「いつの間にか、こうなっていた」と、満面の笑顔で、あっけらかんと話す。まさに二人三脚の、どちらが欠けてけていても現在の北京はあり得ない、そんなお二人なのである。


北京といえば、餃子はもちろんのこと、坦坦麺も大人気である。坦坦麺といえば、いわゆる芝麻醬を使用した、ゴマ風味の麺かと思いきや、全く違う変わり種。豚ひき肉、ザーサイ、ニンニクがたっぷり入った、醤油ベースのあんかけスタイルが特徴的だ。「この坦坦麺のスタイルが確立したのは、オレが中学校に上がる前ころだったから、今から56、7年前くらいのこと。この当時に確立した、北京の坦坦麺の流れを汲んだ坦坦麺が、川崎近辺、そして地方にまで引き継がれているらしい。餃子も、他の麺類やチャーハン、炒め物なども、この頃から、ほぼ変わっていない。少しでも美味しくなればと、日々、あれこれ試行錯誤しているものの、ベースはあの頃のまま。いわゆる中国料理の味というよりも、日本人好みの中華料理を意識して作っている。それが、お客様に受け入れられているのかなと思う。」


それはメニューだけにとどまらない。ラーメンのタレ、味噌ラーメンのタレ、炒め物のタレ、味噌ダレ、水餃子のタレ、ドレッシング、そしてチャーシュー、煮豚などなど。すべてにおいて、市販の出来合いのものを一切使わない、昔から守られてきた秘伝のレシピによって、その都度手作りされている。それは、本当に手間のかかること。それは、本当に覚悟のいること。それでも、決して手は抜かない。いつでも、「美味しい」と喜んでくれるお客様のことを想い、北京ならではのスタイルを守り続けている。言うは易し、続けるは難し。頑固に、こだわり抜いてきた賜物なのである。


「どんな有名な高級料理店じゃなくて、いいんだよね。みんなが美味しい、美味しいって来てくれる、そんなお店でいたいんだよね。」と、久男さんは呟く。決して、もの多く語ることはない、久男さんの言葉に、これまで背負ってきた荷の重さ、お客様に対する想いの果てを感じさせられる。だからこそ、地元に愛される中華料理店へと成長を遂げてきたのだと思う。


このご夫婦、お二人の良さは、それぞれが、お互いに認め合っていること。それが、すべて。それこそが、すべてなのである。社長である久男さんの想い、そしてその想いを汲み、陰ながら100%、いやそれ以上に支えるきみ恵さんの想い。その本質、ベースには、同じものが見えてくる。今は亡き父から引き継いだお店に対する想い。お客様に対する想い。料理に対しての想い。経営のスタイル。その一つ一つに真摯に向き合い、取り組む姿勢に、表も裏もない、真面目で正直だ。何があっても、どんな問題が起ころうとも、2人で何とか乗り切っていく、やりきっていく、そんな気概が自然と流れている。当初から、行列が出来るほどの人気店だったわけではない。TVや雑誌などで紹介されたからというだけでなく、そこに確かな価値、美味しさを来店したお客様が見出したからこそ、ここまで人気が高まってきているのだと思う。だからこそ、『昔、このマンションに住んでいて、何十年ぶりに懐かしくて食べにきました』と遠方より足を運んでくれるお客様、『北京の餃子が美味しかったから送って欲しい』といって餃子を注文にくるお客様、こんなお客様が本当に珍しくない。次から次へと後を絶たずに訪れる。


そしてまた、このご夫婦の魅力。とにかく従業員やバイトなどに対しても、実に温かな想いに溢れている。バイトの学生などには、あれやこれやと、実に父親、母親に匹敵する想いで、我が子同様に、時には厳しくもあり、それ以上に優しく、愛情たっぷりで接してくれる。人の気持ちというのは、必然的に伝わっていくもの。こんな想いもまた伝わっているから、バイトでない日も、わざわざ北京に1人でごはんを食べにくる、友だちを連れてごはんを食べにくる、そんなこともよく見られる風景のひとつ。


また、北京で仕事をさせていただいて、北京に感謝しているのは、バイトしていた子どもだけではない。その子どもたちばかりではない。その子どもたちの親もまた、感謝の念が尽きない。だから、バイトを辞めたあとも、お礼に、それこそ地方からいろいろな品物が送られてくる。それは、お客さんも然り。美味しいものを見つけると、「皆さんでどうぞ」と、差し入れを持ってきてくれたりしてくれる。そんな繋がりに、温かさを感じる。今まで忘れかけていた、そんな感覚を取り戻してくれるのが、この北京という店なのである。


新丸子から居を移してはや17年、きみ恵さんは話す。「私が生まれ育ったまち・新丸子も、自分のふるさととして、いいまちだと思う。ここ宮崎台に住むようになって、ここ宮崎台=宮前区もいいまちだと思う。住むにしても、商売をするにしても。北京が、あのまま新丸子だったり、元住吉だったら、どんなだったかな〜って思ったりするけど、ここがやっぱり一番いい環境だったのかもしれない。住めば都とはいうけど、都内に出掛けるにも、どこかに出掛けるにも便利なまちだと思う。案外、緑も多いし、環境もいい。これからも、暮らしていきたいまちかな。」と。


北京に来店するお客様は、ご贔屓のお客様が多い。その大半が、やはり坦坦麺と餃子が目当て。その他にも、チャーハンやタンメンだったり、もやしそばだったり、えびそば、ニラレバ、しょうが焼き定食だったり、それぞれのメニューにファンがいる。そんな常連さんばかりでなく、TVや雑誌などで紹介されたり、お友だちに聞いて来店したなど、新規のお客も多い。「初めてだけど、何がおすすめですか?」、「坦坦麺の辛さは、どんな感じですか?」、そんな会話もしばしばだ。


宮前区というと、川崎市の中でも転入転出の多い区である。そんな土地柄でありながら、宮崎台というまちに店を構えて、43年目。今ではすっかり老舗店となった北京。引っ越しして行った方々がわざわざ遠くから「懐かしい」「また食べにきたい」と足を運ぶ。そして「近くに引っ越してきた」「美味しい店があると聞いて来た」と転入者を温かく受け入れる。まちと人と、北京と。まるで交差点のように、つなげているように感じられる、そんな存在のお店だ。

いつまでも、ずっとずっと残っていて欲しいとやまない北京。尾池ご夫妻の温かな人柄と想いこそが、このまちにとっての財産ともいえると思う。


これからも、ずっと♪


みんなに愛される、まちに愛される北京でありますように♪


(2016年8月~11月取材/2016.12.6公開)


(取材&文:笠原千恵子  カメラマン:青柳和美・笠原千恵子)

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